熊本のメディア
主人が熊本から帰ってきました。そして買ってきた地元紙、熊本日日新聞。
新聞をデジタル以外で読むのは久しぶりですが、手に持った時に感じる紙の重みやインクの色から、現地の慟哭が聞こえてくるようでした。紙もデジタルも中身は同じと思っていましたが、こうした伝え方もあるのですね。
昨今、震災取材を行うマスメディアの不誠実な対応がクローズアップされています。私の地方支局経験から言えば、浅い取材と傲慢な態度で現場を荒らしていくのは、きまって外から来たメディアです。
現地のメディアは、連日、寝る間も休む暇もなく走り回って現場の状況を伝えています。中には親族が被害に遭った方もいるでしょう。地元を愛するがゆえに、地元紙に就職した方もいるはずです。そんな記者から見た、今の熊本の現状は、ただただ涙が出てくる。そういった心境ではないでしょうか。正直、取材どころではないと思います。
でも、そんな悲しみに蓋をして、被災者の声を聴くのが彼らの仕事です。本当に頭が下がります。
テレビメディアは、東京のキー局を中心にグループを形成しているので、わざわざ東京から来なくても、現地にある同一系列のテレビ局の映像を使えばいいと思います。政府や気象庁への取材、有識者に解説を聞くなど、東京でしかできない仕事もあるので、それは東京で行う。阪神大震災との比較が必要なら、関西準キー局が協力する。
現場負担の軽減のためにも、そうした協力体制を築いてもらいたいものです。
北島選手が引退しました
本郷高校時代に彗星のごとく現れて、次々に記録を更新し、日本人らしからぬ勝負強さと飾らない発言で、人々の心をつかんでいきました。
33歳になった今も、日本選手権の注目であり、真のヒーロー萩野を圧倒するかのような存在感を見せました。記録は残念ながら、当時には及びませんでしたが。
今日、引退会見をしていました。表情を見る限り、満足した時間を過ごせたようです。凡人には分からぬプレッシャーと葛藤があったでしょうが、本人にしか分からぬ喜びもあったはずです。本当にお疲れ様でした。今後、何を目指すのかは分かりませんが、後進の指導に当たり、更なるスーパーヒーローを生み出してください。全力で応援します。
▲北京の頤和園(本文とは関係なし)
数年前のデータを探してみると、2008年北京五輪、北京ジャパンハウスで取材した時の写真が出てきました。写真には、メダリストとして、北島選手や(今はタレントとして活躍する)宮下選手が並んでいます。
私がメディアを目指した理由の1つには、彼のようなスター選手を取材したいという思いがありました。目の前で聞いて、私にしか書けないことを書きたいというのが、当時の夢であり目標でした。今もそれはそれで正しかったと思います。
ですが、いつの間にか、そうした思いは消え去り、スター選手にはない何かを追い求めるようになりました。今はもうスポットライトに対する憧れはありません。
でも、この写真を見ると、当時を思い出します。北京五輪の取材がしたいと言って、家族を置いて北京まで行きました。その情熱は、今の私には想像できませんが、まぎれもなく私が選んだ選択でした。
人は誰しも変わります。変わりながら、膨らんでいきます。私は、今の自分にたどり着いて良かったと思います。そして、10年後もそう思っていると思います。
大舞台から降りた北島選手、今後のさらなる活躍を期待します。もう表彰台に立つことはないですよ。金メダルを首にかけてもらうこともないですよ。
でも、もっと違う、素敵な人生が待っているはずです。
桃園の誓いの舞台に行ったことがあります
三国志ついでに1つ。
以前、北京に住んでいたときに両親が遊びに来まして、父親たっての願いで、桃園の誓いの舞台である河北省涿州に出かけることになりました。
時は北京五輪のさなかで、列車のチケットがとりにくく、北京からたかだか40分程度の場所なのに、なぜか寝台列車で行きました。普通席より数倍高い寝台しか取れなかったのです。
しかも、当の父親が涿州でお腹を壊し、速攻帰京(北京に帰る)を余儀なくされるという評価の難しい旅でしたが、前半は総じて面白く、桃園の誓いの場所や張飛廟を、「バタバタ」と呼ばれる三輪車をチャーター?して効率よく回りました。
▲劉備ら3人が、義兄弟の契りを結び、酒を飲む様子(確か、張飛廟にて)
涿州は素朴で、昔ながらの風情が残る町でした。私は過ごしやすさに満足し、母親はスーパーで爆買いを始めようとした矢先に、父親がお腹痛い発言をしたため、母子とも不完全燃焼で帰路に着きました。いまだに母親は「もう一度涿州に行きたい」と言います。涿州の方も、そんな日本の高齢女性がいるとは知る由もないでしょう。
北京に戻り、ホテルで一休みすると父親の体調も回復していきました。その日の夕食は、確か寿司だったと思います。
ただ、いつも思うのは、こうした海外旅行のとき、まず初めに難色を示すのは母親ですが、現地に行き一番元気なのも母親です。涿州行きも当初は不安な様子を見せていましたが、寝台列車に乗るや否や、乗客の中国人の方に日本語で話しかけたりと、悪意のない傍若無人ぶりをいかんなく発揮し、大層ご満悦の様子でした。
仲間の作り方~桃園の誓い~
随分、ご無沙汰してしましました。前回の投稿からすぐに書くつもりでしたが、仕事が立て込み、時間的心理的にゆとりがなくなり、今になりました。
そうそう、三国志の話でしたね。
ドラマ「三国志 Three Kingdom」を見て私が感じたのは、今も昔もグループワークは難しかったのだ、ということでした。
というのも、ドラマの元である元末明初に書かれた「三国志演義」は、劉備、関羽、張飛の3人を軸に話が展開します。物語の冒頭で出会った3人は、河北省の張飛の家で桃園の誓いを結び、「たとえ同日に生まれずとも、ともに死ぬことを望む」と誓い合い、以後3名が死ぬまで唯一無二の親友、兄弟として苦楽を共にします。
3人の仲は、世界中がうらやむ関係と言っても過言ではありません。
ただ、そこで考えました。そもそも、小説と言うのは、決まって、書かれた時代の闇(課題)や希望(欲望)を反映するものです。そうすると、史実である漢末も、小説が書かれた元末明初も、志を同じくする者が互いを思って仕事をやり遂げることが、いかに貴重であったかを、逆に暗示しているとも読み取れます。
▲中国・瀋陽の北陵(本文とは全く関係ありません)
会社勤めをしていると、グループで動き、結果を出すことが求められます。うまく回れば非常に良い結果が得られますが、個性的な集団であれば、その統率に時間と労力が課されるのも、珍しい話ではありません。
ドラマ「三国志」では、劉備の陣営に入った諸葛亮を、当初、関羽や張飛は疎ましく思います。劉備を盗られるのではないかという嫉妬心に近いものです。
劉備が呉に半ば人質に取られてからは、彼らの関係はさらに悪化し、劉備が呉から戻ったその日に諸葛亮は軍師の印を置き、姿を消してしまいます。疲れ果てたという意思表示です。
関羽と張飛の劉備に対する絶対的かつ排他的な信頼、そして、劉備不在の中で2人を統率する若き軍師のストレス。諸葛亮の苦労は想像に余りあります。でも、こんなシーン、今の社会でも見たことがありますよね。
相手を尊重することの難しさ。
往時もそうであったのかと考えつつ、「三国志演義」の著者、羅漢中の心の叫びのようにも思え、唇を噛みしめる今日この頃です。
遅すぎる三国志熱
私はわざわざ大学にまで行って、歴史の勉強をしていた。今となっては、もっと実学に触れておけば…と思わなくもないが、
高校時代に迷いなく文学部を選び、「私は中国史を学びたい」などと言っていた。
(雲南省・大理)
そんな私が今はまっているのが、あの三国志だ。
そう、誰が聞いても遅すぎる。
一般的に、大学で歴史を学ぼうと言う人間は、小学校で横山光輝の「三国志」に熱中し、中学校で吉川英治の「三国志」を読みふけり、高校で「三国志演義」を読むもの。そして大学で陳寿の「三国志」を原文で読み、なるほどそうだったのかと合点がいくという具合だ。
私は恥ずかしいことにどれも読んでいないが、それには言い訳がましい理由がある。
小学校の時に、隣の席の男の子が三国志にはまっていて、何かにつけて、その話をしてきた。そして面倒なことに、毎日軽い「英雄テスト」なるものを出題し、「趙雲を知らないのか」「張遼こそが英雄だ」などと指摘を受け続け、全く答えられない私は、そのたびに嫌な思いをした。(チョウウンもチョウリョウも小学生には同じに聞こえた)
通常なら奮起するところだが、三国志を覚えても何の成績アップにつながらないことを知っていた私は、男の子の熱意を羨ましいと思いながらも、適当に受け流していた。
だが、そのとき感じた「答えられない」という屈辱は今も鮮明に覚えており、それが私を三国志から遠ざけた理由である。
あれから25年ほど経ち、このドラマをきっかけに、私はようやくはまることになった。
35歳を超えて見る三国志は、ビジネスにも十分応用がきき、「もう他人事には思えない」というのが率直な感想だ。
では、なぜ三国志は、国を越え時代を超えて人を引き付けるのか。
私なりの分析を次回以降に記したい。