仲間の作り方~桃園の誓い~
随分、ご無沙汰してしましました。前回の投稿からすぐに書くつもりでしたが、仕事が立て込み、時間的心理的にゆとりがなくなり、今になりました。
そうそう、三国志の話でしたね。
ドラマ「三国志 Three Kingdom」を見て私が感じたのは、今も昔もグループワークは難しかったのだ、ということでした。
というのも、ドラマの元である元末明初に書かれた「三国志演義」は、劉備、関羽、張飛の3人を軸に話が展開します。物語の冒頭で出会った3人は、河北省の張飛の家で桃園の誓いを結び、「たとえ同日に生まれずとも、ともに死ぬことを望む」と誓い合い、以後3名が死ぬまで唯一無二の親友、兄弟として苦楽を共にします。
3人の仲は、世界中がうらやむ関係と言っても過言ではありません。
ただ、そこで考えました。そもそも、小説と言うのは、決まって、書かれた時代の闇(課題)や希望(欲望)を反映するものです。そうすると、史実である漢末も、小説が書かれた元末明初も、志を同じくする者が互いを思って仕事をやり遂げることが、いかに貴重であったかを、逆に暗示しているとも読み取れます。
▲中国・瀋陽の北陵(本文とは全く関係ありません)
会社勤めをしていると、グループで動き、結果を出すことが求められます。うまく回れば非常に良い結果が得られますが、個性的な集団であれば、その統率に時間と労力が課されるのも、珍しい話ではありません。
ドラマ「三国志」では、劉備の陣営に入った諸葛亮を、当初、関羽や張飛は疎ましく思います。劉備を盗られるのではないかという嫉妬心に近いものです。
劉備が呉に半ば人質に取られてからは、彼らの関係はさらに悪化し、劉備が呉から戻ったその日に諸葛亮は軍師の印を置き、姿を消してしまいます。疲れ果てたという意思表示です。
関羽と張飛の劉備に対する絶対的かつ排他的な信頼、そして、劉備不在の中で2人を統率する若き軍師のストレス。諸葛亮の苦労は想像に余りあります。でも、こんなシーン、今の社会でも見たことがありますよね。
相手を尊重することの難しさ。
往時もそうであったのかと考えつつ、「三国志演義」の著者、羅漢中の心の叫びのようにも思え、唇を噛みしめる今日この頃です。